本メルマガは、IoT価値創造推進チームのリーダーである稲田修一が取材を行ったIoT導入事例の中から、特に参考となると感じた事業や取り組みを分かりやすくお伝えする見聞記です。
【ここに注目!IoT先進企業訪問記 第96回】
プライバシーを守りながらデータを掛け合わせる~秘匿クロス統計技術を活用するドコモの挑戦~
1. はじめに
データ活用が社会のあらゆる領域に広がる中、行政、企業など異なる組織が保有するデータを掛け合わせることで、これまで見えなかった社会の姿を捉え、新たな価値を生み出すことが可能になります。しかし、複数組織のデータを掛け合わせる際に必ず立ちはだかるのが「プライバシー保護」の問題です。どれほど有益な結果が得られる可能性があっても、これらの課題への懸念が払拭されずに実現されないのが現実です。
NTTドコモ(以下、「ドコモ」という)が開発を進める「秘匿クロス統計技術」は、この課題に正面から向き合う技術です。異なる組織が保有するデータを、互いに自らのデータを相手に明かすことなく掛け合わせ、統計的な知見を抽出します。つまり、「お互いのデータを見せないまま、データを活かす」ことができる、従来の常識を覆すアプローチです。
この技術が社会に広く受け入れられるためには、単に技術的に安全であることを説明するだけでは不十分です。モバイル空間統計がかつてたどったように、実証を積み重ね、社会課題の解決に役立つ具体的な成果を示し、ステークホルダーの理解と信頼を獲得していくプロセスが不可欠です。本稿では、モバイル空間統計の普及の歴史を振り返りながら、秘匿クロス統計技術の今後の可能性を探ります。
2. モバイル空間統計とその普及プロセス
モバイル空間統計は、ドコモの携帯電話ネットワークの仕組みを使用して、個人を特定しない形でいつ・どんな人が・どこから・どこへ移動したかを、24時間365日統計的に把握することができる技術です。現在では、マーケティング、観光、まちづくり、災害対策など、多様な領域で活用され大きな価値を創出しています。でも、ここに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
初期の段階では、「本当に個人が特定されないのか」「位置情報を勝手に使っているのではないか」といった懸念が根強く存在しました。このため、有識者からなる研究会を設けて、携帯電話利用者のプライバシーや個人情報を守るために必要なデータの処理方法、モバイル空間統計の作成・提供・活用に関するプライバシー保護や個人情報保護の法的側面や社会的配慮について検討を行っています。そして、利用者のプライバシーを厳重に保護するために必要な基本事項をまとめたガイドラインを公表しています。
また、このような検討とあわせて「実証を通じて理解を得る」という地道なアプローチに挑戦しています。自治体や研究機関などと連携し、災害時の避難行動分析や観光施策の効果測定など、社会的意義の高いテーマで実証を重ねています。このような実証を繰り返し、実際の社会課題の解決に役立つという成果を示すことで、技術の有用性と安全性に対する理解が進み、世の中に広く浸透したのです。秘匿クロス統計技術についても、同様のプロセスで普及が進むだろうと予測しています。
3. 秘匿クロス統計の概要と実証事例
先に述べたように、秘匿クロス統計技術は、複数の組織が保有するデータを互いに開示することなく掛け合わせ、統計的な知見だけを抽出する技術です。この技術では、以下の3つの先進技術を効果的に組み合わせて複数企業のデータを処理します(図1参照)。
① セキュアマッチングプロトコル(PSI-CA注1): データを暗号化したまま計算し、お互いのデータを復号せずに集計を行います。準同型暗号など複数の暗号技術を組み合わせて実現します
注1:PSI-CA:Private Set Intersection Cardinality
② 差分プライバシー: 出力される統計情報から個人が特定されないよう、数学的に安全性が保証されたノイズを付加します
③ 隔離実行環境(TEE): CPU内の保護された領域で処理を行い、処理過程の不可視性と完全性を保証します

図1:秘匿クロス統計技術の処理概要(出所:NTTドコモ提供資料)
NTTグループの研究所は、準同型暗号やTEEなどの基盤技術に強みを持っています。差分プライバシーは国際的に確立されたプライバシー保護技術ですが、ドコモはこれを実サービスに適用するためのノウハウを蓄積しています。そして、これらの技術を使うデータを持っているのがドコモです。この2社がタッグを組むことにより研究所発の技術が実装レベルに進化したのです。もちろん、進化のためには実証の場が必要です。その場は、ドコモから日本航空(JAL)、JALカードに声がけすることで得ることができました。
JALのカウンターパートの方が現場の課題を分かっておられ、かつ、問題意識をもっておられ、話が進むのが早かったそうです。具体的な実証実験のテーマとして選ばれたのは次のとおりで、航空・観光・地域活性化といった社会的意義の高い領域の課題です。
① 航空機の定時出発率の改善(2022年~2023年)
② 北海道内の移動ニーズの把握(2023年~2024年)
③ 空港からの訪問エリアを越えた移動を促す施策により、道東エリアの広範囲の人流創出(2024年)
④ 関係人口創出による地域活性化(2025年~)
これらの実証実験においては、ドコモのモバイル空間統計(人口分布・移動傾向)、JALの航空利用データ、JALカードの購買・会員属性データといった、通常ならプライバシー保護や企業秘密保護の観点から共有が難しいデータを掛け合わせています。そして、今まで得ることが難しかった北海道内の観光客の移動パターン、航空利用と地域内消費の関係、季節・地域ごとの需要の特徴などを明らかにしています。これによって、秘匿クロス統計技術が、地域経済の活性化や観光政策の高度化に貢献し得る実践的なツールであることが明らかになりました。
現在、実施中の「④関係人口創出による地域活性化」に関する実証実験は、今までの成果を発展させ、全国規模の関係人口創出による地域活性化をめざすものです。国内 4 空港(新千歳・南紀白浜・高松・福岡)を対象として、JAL 便に搭乗した顧客の到着後の移動に関する人口統計情報から、繰り返し訪問する顧客の傾向を明らかにし、関係人口の増加に貢献する知見を得ることをめざしています(図2参照)。

図2:「関係人口創出による地域活性化」実証実験の概要(出所:NTTドコモ提供資料)
4. 秘匿クロス統計技術の今後の発展に期待
近年のアルゴリズム最適化と計算機パワーの向上により、秘匿計算の処理性能は飛躍的に改善しています。ドコモの研究報告注2を読むと、1000万レコードから1億レコードまでのさまざまなダミーデータを作成し、システムの処理性能を評価しています。その結果、大規模な入力データに対しても実用的な時間(数十分から数時間程度)での集計処理が可能であることを確認しています。
注2:「企業横断の統計的なデータ活用による社会課題解決―秘匿クロス統計技術の完全性保証方法の設計と実装」, NTT DOCOMO テクニカルジャーナル 31(3),2023年4月.
かつては「理論的には可能だが実用には重い」と言われた秘匿計算が、いまや実用レベルのデータ量でも十分に処理できる段階になっているのです。もちろん、秘匿クロス統計技術が今後さらに発展し、社会に広く受け入れられるためには、計算機パワーのさらなる向上と計算コストのさらなる低減が必要です。これについては、生成AIの普及に伴い高性能GPU注3の供給拡大や計算基盤の低価格化が進んでおり、秘匿計算の実行環境も整いつつあります。秘匿クロス統計技術は、このような環境変化を追い風として成長する可能性があります。
注3:GPUは、Graphics Processing Unitの略。画像処理やグラフィックス描写を行うための半導体チップで、特に3DグラフィックスやAI処理において重要な役割を果たす。
もちろん、こうした技術進化があっても、社会的なニーズが存在しなければ普及は進みません。実は、ヘルスケア、地域活性化、教育、防災など多くの領域で、個人データ、医療データ、行動履歴データ、購買データなどの秘匿性が求められるデータを扱っています。これらのデータを他のデータと掛け合わせることで、より深い洞察が得られることも分かっています。例えば、医療データと行動データを掛け合わせることにより、より的確なヘルスケア施策の実施が可能になると言われています。でも、プライバシー保護や個人情報保護の観点から、これらのデータは長年「掛け合わせたくても掛け合わせられない」状態にあるのです。秘匿クロス統計技術は、この壁を突破する「切り札」となる可能性があります。
秘匿クロス統計技術の幅広い普及のためには、モバイル空間統計と同じく、実証の積み重ねが鍵となります。そして実際の社会課題の解決に役立つという成果を示し、ステークホルダーの信頼を得ることが必要です。秘匿クロス統計技術は実証実験の段階であり、サービス化は未定ですが、モバイル空間統計と同じように、この技術をじっくりと、社会基盤技術の一つになるまで育てることを強く期待します。
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